はてなブログには簡易アクセス解析の機能がついている。
のだが、最新の 1000PV しか記録されていないし、PV 以外には表示されたページと、参照元のドメインしか分からない。今日は Google からの流入があったけど、検索キーワードが分からないので、アクセス解析としてはまったく機能していない。
HTML ソースを見ると、すでに Google Analytics のコードが埋められてるが、これは、はてな社のアカウントだ。
id:omi_k 一瞬竜馬ワナビのブログかと思わせるタイトル/URLみてニヤソ 2011/12/31
http://b.hatena.ne.jp/omi_k/20111231#bookmark-74145973
高知県では日常的に「ほたえな」って言うので、県外から見ると坂本竜馬を想起するってのは意外だな。じつは坂本竜馬のことはよく知らず、ブログのタイトルを決めたあと検索して竜馬の最期の日に発した言葉らしいことを初めて知った。ついでに辞書の説明で「近世上方語」とされているのも初めて知った。土佐弁ではないんだね。
言葉の移り変わりについて、上方で発生したものが同心円状に伝播していき、地方に古代中世の上方言葉が現存していることはよく知られている。秋田県に火をフィ、蛇をフェビという中世以前の上方の発音を残していることは有名だ。
高知では「ほたえる」のほかにも、「いぬ(去る)」という上方言葉が伝えられている。漫画家のはらたいらさんが東京で酒をのみ、仲間に「いのう、いのう」と言ったが、意志が通じなかったと聞いた。西日本にひろく残っているようだ。「古」という文字を「いにしえ」と読むのはここから来ていて、「過ぎさった時間」という意味だ。
ところで、高知では地元から坂本竜馬を輩出したことだけが唯一の県民の誇りなので、ものに名づけるときはなんでもかんでも「竜馬」と名づける。空港も高知龍馬空港だし、息子の名前も竜馬、飼い犬の名前も竜馬だ。だから、「こりゃ、竜馬!ほたえな!」という怒声が飛びかうのは高知県民にとって変哲のない日常風景であり、それがおかしいともなんとも思っていない。いや、おかしいだろ。
今年*1、チャーチルの著作からとして次のような引用を目にすることが多々あった。
22 名前: サクソニア セミ・ポンプ(関西地方)[] 2010/09/21(火) 19:25:15.73 id:L8yTPLT30
■■ チャーチルの「対日世界大戦回顧録」より
http://kopipech.blog2.fc2.com/blog-entry-1794.html日本人は無理な要求をしても怒らず、反論もしない。
笑みを浮かべて要求を呑んでくれる。しかし、これでは困る。
反論する相手をねじ伏せてこそ政治家としての点数が上がるのに、
それができない。
それでもう一度、無理難題を要求すると、これも呑んでくれる。
すると議会は、いままで以上の要求をしろという。無理を承知で要求してみると、
今後は笑みを浮かべていた日本人がまったく別人の顔になって、
「これほどこちらが譲歩しているのに、そんなことを言うとは、
あなたは話のわからない人だ。ここに至っては刺し違えるしかない」
と言って突っかかってくる。英国はマレー半島沖合いで戦艦プリンスオブウェールズとレパルスを
日本軍に撃沈されシンガポールを失った。日本にこれ程の力があった
なら、もっと早く発言して欲しかった。
最初に見たときは、どうもウソくせえなー、と思っていたのだが『回顧録』を読んでいないので即断はできなかった。
オレはこの文章のどこにウソの匂いを感じたのだろうか。
それはここに描かれる日本人のイメージが、イギリス人によるものというよりは、日本人によるセルフイメージにあまりに一致しすぎるからだ。多くの日本人は、自分たちが我慢強く、謙虚だと信じている。欧米人が力づくで難癖を押しつけてくるので、我を抑えているのだと信じている。なにも言わないが、正当性はこちらにあると思いこんでいる。ここで語られる日本人のイメージは、日本人によるセルフイメージにぴったりだ。しかも、このイメージは戦前の日本人ではなく、戦後の日本人のセルフイメージだ。
いちど、ウソくせえと思ったら、いろいろなところで怪しい匂いが立ってくる。たとえばチャーチルが、自国の主張を「無理難題」と呼んでいるところがウソくさい。どこの国に、自国の主張を無理難題と呼ぶ元首があるのか。
また2隻の戦艦を失ったことを嘆くまではまだよいとして、「日本にこれ程の力があったなら」というところがウソくさい。これでは、あたかもイギリス首相が日本の戦力を事前調査しないで戦争を始めたかのようだ。普段は物静かだが本気を出すと手強い、というのは典型的な日本人のセルフイメージにすぎない。
チャーチルが引用する「ここに至っては刺し違えるしかない」という日本人の言葉もウソくさい。いかにも日本人が使いそうな言いまわしだが、それをイギリス人がどうして熟知しているのか。日本の戦力すら見誤ったほどなのに、どうしてこういう日本人しか理解できそうにない微妙な言いまわしだけが完璧に日本人が言ったように記録できるのか。
イギリス国民にも読ませるものなのに、2隻の戦艦を失った理由を、日本人の性格のせいにしたり、それを自分が見誤ったせいにしたりしている。そんな『回顧録』が実際にありうるのか。
日本政府の外交姿勢を論じる内容なのに、「日本は」「日本政府は」と言わず、「日本人は」と言ってるところもおかしい。まるで、日本人が日本人によるセルフイメージを反芻するために作られたような文章だ。
オレは『回顧録』を持ってないし、読んだこともない。だから、本当はこのようなことが書かれているのかもしれない。
190 :WiLL2005年8月号『繁栄のヒント』日下公人:2006/08/07(月) 04:47:57 ID:2KPrbgCs
チャーチルの『第二次世界大戦回顧録』のなかにこんなことが書いてある。(引用省略)
これは、昭和十六(一九四一)年十二月十日、マレー半島クァンタンの沖合いで、イギリスが誇る戦艦プリンス・オブ・ウェールズとレパルスの二隻が日本軍によって撃沈されたときの日記だが、チャーチルは、これによってイギリスはシンガポールを失い、インドでも大英帝国の威信を失うのではないかと心配しながら書いている。
チャーチルは、「日本にこれほどの力があったのならもっと早くいってほしかった。日本人は外交を知らない」と書いている。つまり、日本は相手に礼儀を尽くしているだけで外交をしていない、外交はかけひきのゲームであって誠心誠意では困る、ということらしい。
http://mechag.asks.jp/187345.html
日下公人さんが雑誌『WiLL』に引用してから流行しはじめたらしい。
昔から有名なコピペですが、大学の研究書庫で当該文書を探してもその記述が見つからないのですよ。具体的な引用箇所を知っている人はいませんかね? RT @azukiglg RT @Manualmaton: このチャーチルの言葉が有名ですよね。 http://bit.ly/pFzOsv
— 荻野浩次郎 (@orijox) August 8, 2011
実際に『回顧録』を調べたひとが、そんな記述はなかったと言っている。このひとがウソを言っているのだろうか?
あわせてチャーチルの名言「35歳で保守主義者でなければ智慧がない」はガセもどうぞ。
Yahoo!知恵袋でも同様の疑問を抱いたひとが質問を投げかけている。質問者、および回答者、ともに『第二次世界大戦回顧録』にそのような記述はないと言っている。
チャーチルの第二次大戦回顧録にはこのような記述はありません。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1483562024
また第二次大戦に至る経緯・日英関係から鑑みてこの内容自体が不自然です。
日下公人による創作なのか、日下公人を騙った創作なのか
それともそれ以前から既にあった文章なのか。初出を知りたい。
さて、この記述はおっしゃるとおり、第二次大戦回顧録にはありません。というか、文体からして違いすぎます。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1483562024
*1:去年からかもしれない。引用文の日付からそれ以前から流通していたことは分かるが、爆発的に普及しはじめたのはここ最近のはずだ。
劉備が、三たび諸葛亮の草廬をおとなって隆中で初めて対面したことはよく知られている。
このとき諸葛亮は、荊州および益州を攻略して地歩を固め、呉の孫権と手をむすんで魏の曹操に対抗すべきと説いている。このことから、荊州を失陥して孫権と仲違いしたことで諸葛亮の戦略は頓挫したと論ずるひとが多いように思う。
おそらく、そうした議論にはあまり意味がない。
君主が、在野の賢者の私宅をおとない、そのとき臣下の側が君主を王者、または霸者となすべく時勢を説き、天命を説き、道義の確立と基本戦略をるる開陳するところまで、ここまでが太公望の故事にならった一種の「お作法」なのだ。 (そして、このあと君主はうやうやしい態度で賢者の手を引いて馬車に乗せるのだろう。)
隆中対の「対」とは「対策」のことで、対策はそのほか「対冊」「策試」などとも呼ばれるが、官僚採用に取り入れられている制度のことで、地方から選出された優秀な人材に、皇帝みずからが対面して問答をかわし、その人材の優劣を判断するものである。候補者にとっても自分の価値をアピールできる大きな見せどころだ。
現代でいえば、企業が従業員を採用するとき面接試験をするようなもので、そのとき従業員のかたる抱負が実現可能であるかどうか、あるいは企業側が実現したいかどうかはまったく考慮するに値しない。採用担当者は別のところを見ている。
隆中対も同じことだ。
劉備が諸葛亮の私宅をおとない、諸葛亮が朗々と大演説するところまでが一連の作法であり、その形式さえ成りたっていれば内容など二の次なのである。
こうした作法はすでに伝統的に確立されたものであるから、それを演じたのは劉備と諸葛亮の主従だけではない。 いくつかの省略や追加はあるにしても、 たとえば曹操と荀彧、孫策と張紘、袁紹と沮授など、君臣が初めて対面したときはこうした作法が多く用いられる。なにも諸葛亮だけが特別なのではない。
作法をどれだけ厳格に遵守するかによって、君主は臣下に対する礼の厚さをあらわす。君主が私宅におもむくのがもっとも敬意が強く、使者をやって政庁に招くのがこれに次ぐ。人払いして二人だけで日が暮れるまで語りあうのが敬意が強く、人々を集めた宴席でうやうやしく迎えて持論を述べさせるのがこれに次ぐ。臣下の側も、使者に呼ばれて政庁におもむくのがもっとも軽率であり、君主がみずから私宅に来るのを待つほうがそれにまさり、それをすら追いかえすのがもっとも尊厳ある態度とされる。
襄楷という人物の伝記が『後漢書』に立てられている。
桓帝の時代に宦官が実権を握り、政治を混乱させたことについて、襄楷は宮殿にまいり諫状を叩きつけた。その内容にいわく、「かつて私は、琅邪の宮崇が于吉に授かった神書を献上したが、陛下は受けとってくれなかった。宮中で黄老や浮屠の祠を建てたと聞いたが、これらは虚無清浄を説くもので、無為をとうとび、殺生を憎んで欲望を斥けるものである。しかし陛下は、欲望を捨てず刑罰を厳しくし、かの教えに背いている。一説に、老子は異邦に行って浮屠となり、浮屠はおなじ桑の下では三たび休まなかったという。長居することで愛着が生ずることを好まなかったからだ。天神が美女を贈ったときも、『こんなものは革袋に汚物を詰めこんだだけだ』といい、目をやらなかった。陛下は、天下の婦女、天下の飲食を集めており、どうやって黄老の道をゆくのだろうか。」
文中の于吉の神書については、後述されている。いわく、「かつて順帝の時代、琅邪の宮崇が宮殿にまいり、かれの師が曲陽泉水のほとりで手に入れた『太平清領書』なる神書を献上した。その内容は陰陽五行を宗家とするが、巫女によるでたらめな言葉が多かった。」
つまり、のちの黄巾党の張角につらなる「太平道」は、民間呪術をルーツとし、さらに古代の学問である陰陽五行家を箔づけをほどこしたものであり、于吉、宮崇がその伝道者であるが、さらにその系譜を引く襄楷は、仏教を道教と同一視して「太平道」に融合させている。仏教由来の思想が、襄楷のかかわる以前から「太平道」に混入している可能性もあるのではないだろうか。『三国志』孫策伝の注釈に見える于吉の記述は、どこか仏教めいて見えているように思う。