さて、前回の記事「汚名挽回」という言い方は間違っている、とする主張の根拠が分からないと「汚名返上」の用例はゼロ、汚名は雪ぐものについてですが、前者がガジェット通信やニコニコニュースに転載されたことから新たな反応がありました。
もとは、はてなブログに掲載していた記事ですが、そこでもよく見られた反応について、ひとこと書いておこうと思います。
「辞書にそう書いてあるから、それが正しいんだ」という主張についてです。
結論からいえば、これがまったく正しくないのですが、なぜそのような主張が出てくるのかはよく分かります。つまり、辞書には言葉の意味の「正解」が書いてあるという思いこみがあるのです。この思いこみがどこから来ているのかといえば、それは同じような思いこみをしているひとに「辞書にそう書いてあるから、それが正しいんだ」と言われたからでしょう。
辞書が正しいと信じるひとがいるから、辞書は正しい。そのような思いこみをしたひとは、辞書の正しさを信じないひとに同じような言葉をぶつけて、思いこみが再生産されることになります。
こうした思いこみをするひとは、辞書がどのようにして編纂されているかを想像したことがないのです。どこかに言葉の意味の「正解」があって、編纂者はその「正解」を拾ってきて辞書に載せているだけだとお考えなのでしょう。
言葉の意味は、時代ととも変わります。おなじ時代でも、地域によって、状況によって、彼我の立場の違いによって、たえず変化していきます。ときと場所によって千変万化しつづける言葉というものに、絶対不変の「正解」がないことは自明とさえ言えるでしょう。
それでは、辞書の編纂者は、どのようにして言葉の意味を辞書に落としこんでいくのか。かれらが恣意的にときと場所を切りとって、それを「正解」だと決めつけているのでしょうか。そんなことはありません。
すべては、用例です。
その言葉が、どの時代、どの地域、どのような状況で、どのような意味合いで使われてるのか、過去にその言葉が用いられた数多くの事実を網羅的に収拾し、そこでの言葉の使われかたに共通する意味合いを切りだし、それを代表的な意味として辞書に載せるのです。
そこに載せられた意味は、さまざまな状況におけるその言葉の使われかたに共通する代表的な意味を切りだしたものですから、とうぜん、すべての意味を包含しつくしてはいません。また、ときにはある状況においては、実際の使われかたとは矛盾する語釈もあります。
たとえば、現代の言葉で「しかる」とはどのような意味があるのでしょうか。現代の多くのひとは「おこる」と同じ意味と認識しているでしょう。あるいは、「おこる」のは感情の発露であり、「しかる」のは論理をもって諭すことだ、と考えるひともいるでしょう。
過去の用例を調べましょう。すこし高級な辞書であれば、用例を明記しています。『大辞林』では次のように説きます。
[1] (目下の者に対して)相手のよくない言動をとがめて、強い態度で責める。
子供のいたずらを―・る
[2] 怒る。
猪のししといふものの、腹立ち―・りたるはいと恐ろしきものなり〔出典: 宇治拾遺 10〕
[3] 陰で悪口を言う。
あのやうなしわい人はあるまいと申して、皆―・りまする〔出典: 狂言・素襖落(虎寛本)〕
どうでしょう、ご想像とはちがった語釈が目についたのではないでしょうか。
[1]は現代語における「しかる」の代表的な語釈です。よく使いなれた用法だと思いますが、オレは個人的に「目下の者に対して」と条件がついていることに、はっとさせられるところがありました。たしかに目上の者に対して「おこる」ことはあっても、「しかる」ことはなさそうです。
[2]はどうでしょう。『大辞林』の語釈は「怒る」ことだとしていますが、出典を見ると、どうも現代語の「怒る」と置きかえが可能な用法ではないように見えます。「しかる=おこる」と安易にイコールで結びつけることが、ためらわれるような感じがします。
[3]にいたっては、もう明らかに現代語の解釈が通用しません。「そしる」という意味合いで使われているようです。
さて、ここで問題なのは、辞書の編纂者は[1]~[3]の語釈をどこから、どのようにして導きだしたのか、ということです。どこかに他の先行辞書があって、その辞書に「狂言『素襖落』の「しかる」というのは「そしる」という意味だよ」と書いてあって、そこから孫引きした…というわけでもないでしょう。
辞書の編纂者は、このように実際に使われている事例(用例)をたくさん集めて、そこではどのような意味で使われているかを検討し、それを辞書に載せているのです。
辞書に言葉の意味の「正解」が載っていて、ひとびとが辞書を見て「正解」の言葉を使っているのではなく、まったく正反対で、ひとびとが使っている言葉を、辞書の編纂者があつめて、それらはそれぞれの場面でどのような意味で使われているのだろうかと考え、おそらくこういう意味なのだろうという判断の過程をへて初めて、辞書に掲載しているのです。
ですから、理解のしかたが正反対なのです。
まず、用例があり、それから辞書ができるのです。
ということは、言葉の正しい意味をしるためには、辞書をなんど引いてもあまり意味がなく、まずまっさきに用例を調べるべきだということが分かります。
ひとむかし前なら、よほどの国語学者でなければ、過去の膨大な用例を調べるすべがなかったのですが、いまはインターネットがあり、電子化されたテキスト群があります。オレのような一般人でも『青空文庫』の用例を調べることは簡単にできます。
われわれが当たり前だと思っていることが、近現代の文学者にとっては案外にそうでもないことが分かったりするので、用例をチェックすることは楽しいと思います。機会があったら、ぜひともお試しください。
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