2012/01/24

IAEA「民主党はよくやっている。だが自民党お前はダメだ」

記事タイトルのまんまですが、ngc2497 さんが昨年6月に取りあげていますね。

こういう重要な報道が小さくNHKに出ていましたので、さくっと記録しておきます。

IAEAの調査団は、今回の事故の教訓を世界の原発の安全に生かそうと、12か国の専門家18人を
日本に派遣し、先月24日から調査を行っていたもので、1日、日本政府に調査概要を報告します。
その報告の案が明らかになり、この中で調査団は、まず、4つの原子炉がメルトダウンの脅威にさらされたことは
今回の事故の特徴だとしています。そのうえで、すべての安全系が喪失し人材や照明が不足する中、
事故直後に実際にとられた対応策以上のことが現実的に実行可能だったとは考えにくいとして、現時点で最良の方法だったと評価しています。
その一方で、津波の想定が過小評価で、予期せぬ高さの津波に対処することができなかったとしています。

つまり自民党政権の原発対応は問題だらけだったのですが民主党政権の原発事故対応については
IAEAの判断では特に問題がなかった事になります。
http://blog.goo.ne.jp/ngc2497/e/77a5cc277f1e56497f770515c0ddb31d

菅政権が最善を尽くしたとは考えないですが、自民党政権ならもっとうまくやれた、というひとが大勢いらっしゃるのにはびっくりしています。

「なかったこと」は共同通信の作文ではなかった

さきのエントリでは、こう書いた。

結局のところ、『「なかったこと」として封印され』いうのは共同記者の「作文」であり、事実ではないのである。
http://yunishio.hateblo.jp/entry/2012/01/23/122720

その後、産経新聞が、共同通信発と思われる同じ主旨の記事を配信していることを知った。以下に引用する。

原発最悪シナリオ 菅政権「なかったこと」と封印していた
2012.1.22 14:44 [放射能漏れ]


 東京電力福島第1原発事故で作業員全員が退避せざるを得なくなった場合、放射性物質の断続的な大量放出が約1年続くとする「最悪シナリオ」を記した文書が昨年3月下旬、当時の菅直人首相ら一握りの政権幹部に首相執務室で示された後、「なかったこと」として封印され、昨年末まで公文書として扱われていなかったことが21日、分かった。複数の政府関係者が明らかにした。

 民間の立場で事故を調べている福島原発事故独立検証委員会(委員長・北沢宏一前科学技術振興機構理事長)も、菅氏や当時の首相補佐官だった細野豪志原発事故担当相らの聞き取りを進め経緯を究明。危機時の情報管理として問題があり、情報操作の事実がなかったか追及する方針だ。

 文書は菅氏の要請で内閣府の原子力委員会の近藤駿介委員長が作成した昨年3月25日付の「福島第1原子力発電所の不測事態シナリオの素描」。1号機の原子炉格納容器が壊れ、放射線量が上昇して作業員全員が撤退したと想定。注水による冷却ができなくなった2号機、3号機の原子炉や1~4号機の使用済み燃料プールから放射性物質が放出され、強制移転区域は半径170キロ以上、希望者の移転を認める区域が東京都を含む半径250キロに及ぶ可能性があるとしている。

 政府高官の一人は「ものすごい内容だったので、文書はなかったことにした」と言明。別の政府関係者は「存在自体を秘匿する選択肢が論じられた」と語った。

 最悪シナリオの存在は昨年9月に菅氏が認めたほか、12月に一部内容が報じられ、初めて内閣府の公文書として扱うことにした。情報公開請求にも応じることに決めたという。

 細野氏は今月6日の会見で「(シナリオ通りになっても)十分に避難する時間があるということだったので、公表することで必要のない心配を及ぼす可能性があり、公表を控えた」と説明した。政府の事故調査・検証委員会が昨年12月に公表した中間報告は、この文書に一切触れていない。
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/120122/plc12012214470003-n1.htm

最初の2段落は、47NEWSなどで配信されたものとまったく同じものだが、第3段落以降、大幅に加筆されている。

問題箇所を抽出してみよう。

 政府高官の一人は「ものすごい内容だったので、文書はなかったことにした」と言明。別の政府関係者は「存在自体を秘匿する選択肢が論じられた」と語った。

この報道によれば、「なかったことにした」は共同通信の手による作文ではなく、「政府高官」の証言に基づいたものと分かる。この箇所が、もともと共同記事にあったものか、あるいは産経新聞が独自に追加したものかは分からない。「なかったことにした」という文言が双方の記事に載っているのだから、最初から共同記事に書かれていたものと推量できるだろう。

政府高官というのが何者を指しているかは分からないが、官僚の一員であることは間違いない(おそらく内閣官房の事務方でしょう)。共同記者はこの高官から聞いた言葉をそのまま記事に書いたわけだ(いや、その場合は「…と、政府高官が明らかにした」と通常なら書くべき状況だと思うよ)。

だから、オレが「共同記者の「作文」であり、事実ではない」と書いたことは、共同記者にとってはまったくの濡れ衣だったわけだ。

ところで、そうすると当初に立ちかえり、菅政権が本当に「最悪シナリオ」文書を隠蔽して「なかったことにした」のか、それが事実かどうかが問題になってくるだろう。

そこで第1段落を読みかえすと、共同記事はこのように言っている。

(A)「最悪シナリオ」を記した文書が昨年3月下旬、当時の菅直人首相ら一握りの政権幹部に首相執務室で示された後、(B)「なかったこと」として封印され、(C)昨年末まで公文書として扱われていなかった

このうち(A)(C)については事実ベースで客観的に確認を取ることができる記述であり、ここでは信憑性を疑わないが、(B)だけがどうにも浮いているように思えるのは、この記述が前述の「政府高官」の証言にのみ拠っているからだ。

さきのエントリでは、当該文書が「なかったこと」にされ「封印」された事実を共同記者は目撃したのかと問うたが、同じ問いかけをこの「政府高官」に呈さなければならない。かれが目撃して「封印」に喩えた菅政権の行為とは具体的になにを指しているのか。また、同様に「別の政府関係者」の証言がどのような根拠に基づいたものなのか、これもはっきりしない。具体的にどのような事実を目撃したのか。

結論は同じところに行きつくだろう。

「最悪シナリオ」が公文書でなかった理由

さきのエントリでは、菅直人政権が「最悪シナリオ」文書を目にしながら、その文書を公文書として扱わなかったのは「文書の管理のずさんさ」だとしたが、それは当たらないかもしれない。

さきのエントリで参照していたブログ記事、共同通信の不思議な原発記事 - kojitakenの日記のコメント欄で、id:flasher_of_thought さんが東京新聞の記事を紹介していた。

福島事故直後に「最悪シナリオ」 半径170キロ強制移住
2012年1月12日 朝刊


 福島第一原発の事故当初、新たな水素爆発が起きるなど事故が次々に拡大すれば、原発から半径百七十キロ圏は強制移住を迫られる可能性があるとの「最悪シナリオ」を、政府がまとめていたことが分かった。首都圏では、茨城、栃木、群馬各県が含まれる。

 菅直人首相(当時)の指示を受け、近藤駿介・原子力委員長が個人的に作成した。昨年三月二十五日に政府は提出を受けたが、公表していなかった。

 シナリオでは、1号機で二回目の水素爆発が起きて放射線量が上昇し、作業員が全面撤退せざるを得なくなると仮定。注水作業が止まると2、3号機の炉心の温度が上がって格納容器が壊れ、二週間後には4号機の使用済み核燃料プールの核燃料が溶け、大量の放射性物質が放出されると推定した。

 放射性物質で汚染される範囲は、旧ソ連チェルノブイリ原発事故の際に適用された移住基準をあてはめると、原発から半径百七十キロ圏では強制移住、二百五十キロ圏でも避難が必要になる可能性があると試算した。

 事故の拡大を防ぐ最終手段にも言及、「スラリー」と呼ばれる砂と水を混ぜた泥で炉心を冷却する方法が有効とした。スラリーの製造装置と配管は、工程表にも取り入れられ、実際に福島第一に配備されている。

 政府関係者は「起こる可能性が低いことをあえて仮定して作ったもので、過度な心配をさせる恐れがあり公表を控えた」と説明。近藤委員長は「当時、4号機のプールは耐震性に不安があり、そこにある大量の核燃料が溶けたらどうなるか把握しておきたかった」と話している。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/politics/news/CK2012011202000041.html

この報道によると「最悪シナリオ」文書は、近藤駿介氏が「個人的に作成した」ものであり、もともと公文書として作成されたものではない。私的な文書が、公文書の扱いを受けないのは当たり前のことではないだろうか。この文書は3月25日に政府に提出され、12月末に公文書の認定を受けたという。

私的に作成された文書が、のちに正式に認められて公文書に「昇格」したわけだから、これは評価すべきことであれ、非難するには当たらないと思うが、どうだろうか。

2012/01/23

菅政権が「封印」した事実とは

まず、1月21日に共同通信が報じたニュースを見てほしい。短い記事だ。以下に引用する。

原発事故、最悪シナリオを封印 菅政権「なかったことに」

 東京電力福島第1原発事故で作業員全員が退避せざるを得なくなった場合、放射性物質の断続的な大量放出が約1年続くとする「最悪シナリオ」を記した文書が昨年3月下旬、当時の菅直人首相ら一握りの政権幹部に首相執務室で示された後、「なかったこと」として封印され、昨年末まで公文書として扱われていなかったことが21日分かった。複数の政府関係者が明らかにした。

 民間の立場で事故を調べている福島原発事故独立検証委員会(委員長・北沢宏一前科学技術振興機構理事長)も、菅氏や当時の首相補佐官だった細野豪志原発事故担当相らの聞き取りを進め経緯を究明。
http://www.47news.jp/CN/201201/CN2012012101001950.html

この記事はなにを言わんとしているのだろうか。菅政権が「最悪シナリオ」を「封印」して「なかったこと」にしたという。最悪のシナリオを想定していなかったというのだ。これが事実なら、原発事故の影響範囲を小さく見積もり、場合によっては国民の生命に深刻な影響を出したかもしれない。国民の生命の安全をあずかる立場でありながら、とんでもないことをしてくれたものだ。これでは国民の信任に対する裏切りとの謗りを免れられまい。…事実であるならば。


ところで、この記事の一部だけを改めて引用(引用A)してみよう。

 「最悪シナリオ」を記した文書が昨年3月下旬、当時の菅直人首相ら一握りの政権幹部に首相執務室で示された後、「なかったこと」として封印され、昨年末まで公文書として扱われていなかったことが21日分かった。

この一文をよく読んで、どのような印象を抱かれただろうか。その読後感をよくよく噛みしめて確認したら、つぎにこの引用(引用B)を見てほしい。

 「最悪シナリオ」を記した文書が昨年3月下旬、当時の菅直人首相ら一握りの政権幹部に首相執務室で示された後、昨年末まで公文書として扱われていなかったことが21日分かった。

どうだろう、読後の印象が一変しなかっただろうか。こちらの引用Bでは、ただたんに「文書の管理がずさんだ」という退屈な事実を伝えているだけのように見える。


最初の引用Aとどこが違っているのか。

『「なかったこと」として封印され』という句を削除しているだけだ(同じ文句は記事の見出しにも使われている)。この句のあるなしによって、ずいぶんと読後の印象が変わってしまうことが分かる。であれば、この句のあるなしは非常に重要だということになる。共同記者は、なぜこの句を挿入しようと考えたのだろうか。


報道記事は、記者が目撃した事実を書く。目撃したことを書かないでいることはできても、目撃しなかったものを書くことはできない。したがって、記事に書かれたからには、記者が目撃したところの事実が存在しているはずだ。

では、「封印した」「なかったことにした」とは、どのような事実を指しているのだろうか。記者は、なにを目撃したのだろうか。

「封印する」とは、どういうことか。文書を、外から見えないようにたたんで、あるいは封筒や袋などに包んで、文書や袋の合わせ目に封泥を垂らして焼きつけ、印を押して開かないようにすることだ。開いたら刻印が割れて、何者かによって盗み見られたことが分かるようになっている。

もちろん、これは比喩的な表現であって、じっさいに菅総理がそのような行為をしたと読むことはできない。しかし比喩であるならば、それに類する行為があったはずである。それは、なにを指しているのだろうか。記者は、菅総理のどのような行為を目撃して、それを封印に喩えているのだろうか。


結論からいえば、封印に喩えられるような事実はなかったのだ。

記者の目撃した事実は、引用Bで書かれるような「文書管理のずさんさ」であって、引用Aで印象づけられるような「最悪シナリオの無視、隠蔽」ではない。もし、封印に類する行為があったのならば、なぜ記者はその行為の事実「そのもの」を報じなかったのだろうか? その事実がなかったからである。この「封印」うんぬんの下りには目撃したところの事実が存在しない。

菅総理は「最悪シナリオ」文書を目にしたあと、最悪シナリオを想定して対策を取っている(適切な行動であったかどうかは別問題である)。そのことは、産経新聞も否定的に取りあげている。

 「最悪の事態となったとき東日本はつぶれる」
 「(福島第1原発周辺は)10年、20年住めないのかということになる」
 これまで首相はこんな風評を流した。
(略)
 首相は22日の記者会見で東日本大震災を「危機の中の危機」と断じた。
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/110422/plc11042223130035-n1.htm

毎日新聞が、昨年12月にこの「最悪シナリオ」文書の存在について報じている。そして、菅総理がこの文書を根拠に行動したであろうことも書かれている。

福島第1原発:「最悪シナリオ」原子力委員長が3月に作成

 東京電力福島第1原発事故から2週間後の3月25日、菅直人前首相の指示で、近藤駿介内閣府原子力委員長が「最悪シナリオ」を作成し、菅氏に提出していたことが複数の関係者への取材で分かった。さらなる水素爆発や使用済み核燃料プールの燃料溶融が起きた場合、原発から半径170キロ圏内が旧ソ連チェルノブイリ原発事故(1986年)の強制移住地域の汚染レベルになると試算していた。

 近藤氏が作成したのはA4判約20ページ。第1原発は、全電源喪失で冷却機能が失われ、1、3、4号機で相次いで水素爆発が起き、2号機も炉心溶融で放射性物質が放出されていた。当時、冷却作業は外部からの注水に頼り、特に懸念されたのが1535本(原子炉2基分相当)の燃料を保管する4号機の使用済み核燃料プールだった。

 最悪シナリオは、1~3号機のいずれかでさらに水素爆発が起き原発内の放射線量が上昇。余震も続いて冷却作業が長期間できなくなり、4号機プールの核燃料が全て溶融したと仮定した。原発から半径170キロ圏内で、土壌中の放射性セシウムが1平方メートルあたり148万ベクレル以上というチェルノブイリ事故の強制移住基準に達すると試算。東京都のほぼ全域や横浜市まで含めた同250キロの範囲が、避難が必要な程度に汚染されると推定した。

 近藤氏は「最悪事態を想定したことで、冷却機能の多重化などの対策につながったと聞いている」と話した。菅氏は9月、毎日新聞の取材に「放射性物質が放出される事態に手をこまねいていれば、(原発から)100キロ、200キロ、300キロの範囲から全部(住民が)出なければならなくなる」と述べており、近藤氏のシナリオも根拠となったとみられる。

毎日新聞 2011年12月24日 15時00分(最終更新 12月24日 15時54分)
http://mainichi.jp/select/jiken/news/20111224k0000e040162000c.html

結局のところ、『「なかったこと」として封印され』いうのは共同記者の「作文」であり、事実ではないのである。

「最悪シナリオ」が公文書でなかった理由

「最悪シナリオ」が公文書でなかった理由について新たな記事を書きました。文書管理はずさんではありませんでした。

「なかったこと」は共同通信の作文ではなかった

「なかったこと」は共同通信の作文ではなかったことについて新たな記事を書きました。共同通信の記者の作文ではなく、「政府高官」の証言に基づく記述でした。

2012/01/18

はてなブログにサイドバー編集機能

本日、はてなブログに「サイドバー編集機能」を追加しました。
デザイン設定ページの「カスタマイズ」欄に、新たに「サイドバー」という項目を追加しました。モジュールの順番の変更や追加ができます。
http://staff.hatenablog.com/entry/2012/01/18/165254

ということだったので、Twitter ウィジェットを追加してみた。…が、ちょっと幅がせますぎですね。

2012/01/12

失語症患者は大阪市長を笑うか

いったい何がおこっていたのだろう? 失語症病棟からどっと笑い声がした。ちょうど、患者たちがとても聞きたがっていた大統領の演説がおこなわれているところだった。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4150503532/

オリヴァー・サックスはロンドン生まれの脳神経科医である。アメリカにわたり診療をおこなうかたわら、作家としても精力的に活動した。映画『レナードの朝』は、このサックス医師の実体験から紡ぎだされた著書を映画化したものだ。本稿の引用はすべて『妻を帽子とまちがえた男』から採っている。

テレビでは、例の魅力的な元俳優の大統領が、たくみな言いまわしと芝居がかった調子で、思い入れたっぷりに演説していた。そして患者たちといえば、みな大笑いしていた。もっとも、全員というわけではなかった。当惑の表情をうかべている者もいたし、むっとしている者もいた。けげんそうな顔をしている者も一人二人いたが、ほとんどの患者は面白がっているようだった。大統領はいつものように感動的に話していた。そう、患者たちにとってはふきだすほど感動的だったのだ。彼らはいったい何を考えていたのだろう。大統領の言うことがわからなかったのだろうか。それともよくわかっていたのだろうか。

サックス医師は、失語症の患者を見極めるためには「きわめて不自然に話したりふるまったりしなければならない」という。なぜならば、「自然な発話とは単語のみで成り立っているのではなく、ヒューリングズ・ジャクソンが考えたように、主題(話そうとする内容)のみで成り立っているのでもない」からである。失語症の患者は言葉の意味を理解しないかわりに、話し手の表情やジェスチャー、声の調子、イントネーション、示唆的な強調や抑揚を、きわめて敏感に読みとる。だからそれら一切を慎重に排除して「声を非人格化」しなければならない。発話を非人格化された「純粋な単語の集合体」に変えることで、患者がその羅列された単語の意味を正しく読みとれるかどうか確認するのである。

だから私をふくめ失語症患者に接している者がしばしば感じることは、彼らには嘘をついても見やぶられてしまうということだ。失語症患者は言葉を理解できないから、言葉によって欺かれることもない。しかし理解できることは確実に把握する。彼らは言葉のもつ表情をつかむのである。総合的な表情、言葉におのずからそなわる表情を感じとるのだ。言葉だけならば見せかけやごまかしがきくが、表情となると簡単にそうはいかない。その表情を彼らは感じとるのである。

(略)

犬にできることは失語症患者にもできる。しかもはるかに高度なことができるのだ。「口では嘘がつけても表情には真実があらわれる」とニーチェは書いているが、表情、しぐさ、態度にあらわれる嘘や不自然さにたいして、失語症患者はとても敏感である。たとえ相手が見えなくても――盲目の失語症患者の場合まぎれもない事実なのだが――彼らは、人間の声のあらゆる表情すなわち調子、リズム、拍子、音楽性、微妙な抑揚、音調の変化、イントネーションなどを聞きわけることができる。本当らしく聞こえるか否かを左右するのが声の表情なのである。

失語症の患者はそれを聞きわける。言葉がわからなくても本物か否かを理解する力をもっている。言葉を失ってはいるが感受性がきわめてすぐれた患者には、しかめ面、芝居がかった仕草、オーバーなジェスチャー、とりわけ、調子や拍子の不自然さから、その話が偽りであることがわかる。だから私の患者たちは、言葉に欺かれることなく、けばけばしくグロテスクな――と彼らには映った――饒舌やいかさまや不誠実にちゃんと反応していたのだ。

だから大統領の演説を笑っていたのである。

サックス医師によると、失語症とはちょうど反対の症状をしめす者がいるという。失語症患者が言葉を理解できないかわりに顔や声の表情を読みとるのに対し、音感失認症は「語の意味は(さらに文法構造も)完全に理解できるのに、声の表情――調子、音色、感じ、声全体の性質――が把握できない」。

サックス医師の病棟には音感失認症の患者たちもいて、エミリー・Dがその一人だった。エミリーは症状が進むにつれ、周囲の人々に厳密な言葉づかいを求めるようになった。「くだけた言葉づかいの会話や俗語、それとない言いまわしや感情的な話がだんだん理解できなくなっていった。そこで彼女は、きちんと整った文を話すこと、正確な言葉づかいで話すことを要求するようになった。文法的に整った文ならば、調子や情感がわからなくてもある程度まで理解できると気づいたからである」。

そのエミリー・Dは、失語症の患者といっしょに大統領の演説を聞いていた。

エミリー・Dもまた、石のように固い表情で大統領の演説を聞いていた。よくわかっているようでもあり、わからないようでもあった。だが厳密にいえば、それは失語症患者の困惑したようすとは反対の状態だったのである。彼女は演説に感動していなかった。どんな演説にも心が動かされることはない。感情に訴えることをねらったものは、それが真正のものであろうと偽りのものであろうと、彼女にはまったく無縁だった。感情的な反応を見せることはできないけれど、彼女もわれわれとおなじく、内心では聞きほれ、それに魅せられていたということはなかったのだろうか? なかった。彼女はこう言った。「説得力がないわね。文章がだめだわ。言葉づかいも不適当だし、頭がおかしくなったか、なにか隠しごとがあるんだわ」と。こうして大統領の演説は、失語症患者ばかりでなく、音感失認症の彼女も感動させることができなかったのだ。彼女の場合は、正式な文章や語法の妥当性についてすぐれた感覚をもっていたせいであり、失語症患者のほうは、話の調子は聞きわけられても単語が理解できなかったせいである。

エミリー・Dは、失語症の患者たちはまた違った理由で、大統領の演説をまったく理解しなかったのだ。

これこそ大統領演説のパラドックスであった。われわれ健康な者は、心のなかのどこかにだまされたい気持があるために、みごとにだまされてしまったのである(「人間は、だまそうと欲するがゆえにだまされる」)。巧妙な言葉づかいにも調子にもだまされなかったのは、脳に障害をもった人たちだけだったのである。

彼らははたして、大阪市長の演説を感動的に聞き入るのだろうか、それとも笑いだしてしまうのだろうか。

2012/01/11

はてなブログの新春キャンペーン

はてなが、はてなブログの新春キャンペーンというのをやってるのだが、応募資格者が期間内にはてなブログを開設したユーザとなっていて、すでに開設済みのたとえばこのブログなどからは応募できない。

はてなとしては、一気にユーザ数を増やしてシェア拡大にはずみをつけたい、というところなのだろうが、キャンペーンの実施自体がはてなブログにもともと興味を持っているひとにしか気づかれないだろうし、欲しい商品について記事を書け、というのがハードル高すぎる。

しかも知名度アップにつながるような手法ではない。抽選で1人にしか景品が贈られないので応募者も思ったように増えず、当選者も応募のための記事を1本書いただけで継続しないのではないか。

10万円の投資は回収できるだろうが、昔のはてなならクチコミがクチコミを呼んで相乗効果を生みだすようなプロモーションをやったはず。こんな費用対効果が正比例するような投資のやり方はしなかった。

はてなは、もともと広報がおヘタなのだが、ここ最近、ますますヘタになってきてないか…。

2012/01/09

劉岱

ここで複雑な解説を交えてまでして史実に正したとしても、それは劉岱というどうでもいい端役の身分が明らかになるのみで、大きな意味はありません。よりも劉岱を同一視してその転落した姿を描く方が、より物語として面白く、より規範として奥深くあるようと考える毛宗崗の方針と合致する訳です。
http://d.hatena.ne.jp/AkaNisin+L-M/20120109/1326038887

これはひどい…。

劉岱はどうでもいい端役などでは断じてない。

『演義』の世界ではいざしらず、劉岱はれきとした司空府の燦々たる長史であり、のちに丞相長史となる王必の先駆けたる位置づけにある人物。劉岱なくして王必は語れず、王必なくして劉岱はぶっちゃけどうでもいいとさえ謳われる、看過すべからざる地位にあるところの劉岱なのである。

2012/01/05

三国志時代のフェミニスト

『襄陽耆旧記』
龐徳公は襄陽の人である。峴山の南、沔水のほとりに住まいして、一度も城内には入ったことがなかった。みずから田畑を耕し、夫婦はまるで賓客同士のように付き合った。休息するときは頭巾を正し、端坐して琴を弾いたり書を読んだりして楽しみ、その様子を見てみると実におだやかであった。
http://www.project-imagine.org/search2.cgi?text=xiangyang1-5

「夫婦はまるで賓客同士のように付き合った。」

三国志の時代は、古代中国ですから、とうぜん男尊女卑の時代です。女性が男性の所有物のように扱われていたこの時代、龐徳公(ほうとくこう)という人は、男性を相手にするのと同じように妻と付き合いました。しかも「賓客」(ひんきゃく)扱いというわけですから、自分自身よりも大切に待遇したのです。妻のほうでもそんな龐徳公を大事に思い、おたがいに敬愛しあう仲だったということです。

龐徳公の弟子が司馬徽(しばき)、司馬徽の弟子が有名な諸葛亮孔明(しょかつりょう・こうめい)です。

2012/01/01

九州治乱記 巻一

外国の軍隊が攻めてきた

わたしはこのように聞いています。むかし神功皇后が三韓を征伐するため九州へお越しになり、まず肥前の脊振山の頂きに布陣されました。外国に渡海することが会議で決まったので、松浦の干潟に移りました。ちょうど猛暑の盛りだったので、玉島川へお散歩になりました。その港から船を出したところ、住吉大明神が白髪の老人の姿で現れて水先案内人をつとめ、志賀の明神が舵取り役をつとめ、伊予の三並が先陣をつとめ、武内宿禰が軍奉行をつとめ、高麗国の奥地、女真へ進攻されました。

水陸での戦いの結果、高麗国の八つの道(地域)と、新羅、百済、契丹の三韓をすべて平定され、異国の国王は日本の犬であると直筆の矢文を送り、帰国なさいました。

筑前に上陸されたとき、皇后はご懐妊されていて、皇子の応神天皇をお産みになりました。そのとき出産された場所を、現在は香椎と呼んでいます。ご出産のとき、神秘的な香りが四方に広がり、近くの椎の木の葉っぱがみなかぐわしくなったので、このように呼ばれているのです。

これが、日本ではじめての外国への出征です。


その後、34代目の推古天皇の時代に、三韓が反乱を起こして、風変わりな人物が日本に攻めてきました。その人物の肉体は鉄でできていたので、和人はその人物を「鉄人」と呼びました。そのときは伊予の樹下の押領使であった越智益躬が勅命をうけて追討しました。

それから39代目の天智天皇の時代にも、新羅が和国に背いたので、前例を見ならい、越智守興に勅命をくだして征伐させました。

45代目の聖武天皇の時代にも、また三韓が日本に背いたので、藤原宇合の息子の淘若をつかわして処罰されました。

それ以来、外国が日本に侵入してくることはなかったのですが、長い年月も過ぎさり、68代目の後一条院の時代、寛仁3年己寅(己未の誤り)の春、新羅の軍隊が、3月に高麗から出航し、4月1日に対馬、3日に壱岐に到着し、8日に筑前の志摩郡に上陸しました。筑肥の兵隊たちが集まって、それをみんな撃退しました。

また73代目の堀河院の時代、寛治年間にも、モンゴルの大軍が戦艦をこぞって攻めよせましたが、九州の武将たちは、壱岐・対馬・筑前の海上へ出航して戦いました。なかでも肥後の菊池太郎経隆は、勅命をくだされて抜群の手柄があり、かれらを討伐しました。

それから亀山院の時代、文永二年乙丑、モンゴルがまた数千艘、兵隊は376万人、8月13日に筑前の博多の港に攻めてきました。西方は大騒ぎとなり、九州の武士たちがみんな集まってモンゴルと戦いましたが、敵はまるでアリのようで、防ぐこともなかなか難しかったのです。味方はみんな中国地方に下がりました。モンゴルは調子にのって博多や箱崎に上陸し、千手や秋月まで押しよせました。原田次郎と秋月九郎の軍隊が山のなかに隠れていて、鬼のお面や獅子の頭などをつけ、赤、黄、青、白、黒の変わった格好をして、あちこちの木陰や草むらから飛びだし、はげしく戦いました。敵は「これは神軍にちがいない」とびっくりして、みんな逃げていき、数百万のものたちは自分で船にのり高麗へ帰っていきました。

ほどなく11年甲戌10月6日、モンゴルの数千艘が対馬に到着し、19日に筑前の今津の沖まで来て、翌日の20日に博多に入ってきました。九州だけでなく、日本全国があわてふためき、関東や六波羅から九州の武将たちに命令書がくだされ、国々の兵隊が博多に集結しました。ちょうど雪解けの洪水が起こり、筑後の千年川まで来ていたので、薩・隅・日・豊・肥後の兵隊たちは渡ることができませんでした。神代民部大輔良忠が仮設の橋をつくり、かれらを残らず渡しました。後日、鎌倉に報告がとどき、ときの執権の北条相模守時宗は良忠を褒め、心のこもった命令書で領地を与えました。

そのとき肥後の菊池左京大夫隆泰が、大将の称号をもらい、錦の旗をあずかり、博多に行って箱崎の松原でモンゴルと戦いました。菊池は盛大に勝利して、隆泰の三男の三郎有隆が、鎌形というところで敵の大将の鬼盤蔵を討ちとりました。そのとき菊池が指していた錦の旗に、たくさんの血がついて、まるで赤い星のような模様になりました。戦いが終わったあと、(天皇は)その旗をご覧になり、菊池に「赤星」という称号をお与えになりました。このことから三郎有隆は赤星と名字を変えたのです。

この戦いで松浦の山代弥三郎階は戦死しました。千葉介頼胤は負傷して、明くる年の建治元年8月13日、領地の肥前の小城で37歳で死にました。こうしてモンゴルはほどなく引きあげました。


このようにたびたびモンゴルが攻めてきては戦争になり、いずれも苦戦しましたので、外国に備えるため、関東は命令をくだして、九州の武士を動員して建治2年3月から博多の港に石垣を作らせました。その場所は、博多の冷泉津の北に3~4里のあいだ、高さ4~5丈に大きな石をつみ、屏風を立てたようにおごそかに建設しました。太宰少弐資能がずっと太宰府にいて、その作業を監督しました。

こうして九州の人々は、それぞれ作業員をつれて博多の港に行き、持ち場を決めて石垣を作りました。その仲間は、筑前の原田孫次郎種遠、秋月左衛門尉種頼、田淵次郎、宗像大宮司、千手、黒河、山鹿、麻生、少弐の一族はもちろんのこと、豊前の城井常陸守時綱、長野、田河、筑後の田尻三郎種重、神代民部大輔良忠、黒木新蔵人大夫、星野、河崎、西牟田弥次郎永家、草野筑後権守永綱、酒見菅太郎教員、末安右馬允兼光、肥後の菊池左京大夫隆泰、阿蘇大宮司惟季、相良、蘆北三郎、肥前の高木伯耆六郎家宗、龍造寺左衛門尉季益、国分弥次郎季高、三浦、深堀弥五郎時仲、大村太郎家直、越中次郎左衛門尉長員、安富、深江民部三郎頼清、有馬左衛門尉朝澄、後藤三郎氏明、同じく塚崎十郎定明、橘薩摩十郎公員、白石次郎入道、多久太郎宗国、於保四郎種宗、馬渡美濃八郎、今村三郎、田尻六郎能家、綾部又三郎幸重、上松浦の波多太郎、鴨打次郎、鶴田五郎馴、下松浦の松浦丹後権守定、峯五郎省、平戸源五郎答、伊万里源次郎入道如性、山代又三郎栄などの(松浦)両党のものたち、豊後の大神一族、薩摩の島津兄弟、日向の伊東、土持、大隅の牛糞、河俣をはじめ、ことごとく博多に集まって協力しました。九州の大事業は、これ以上のものはありません。


そこへ弘安4年辛巳5月20日、またもやモンゴルの船4000艘あまりが壱岐に到着し、筑前のうち志賀、野子の浦から東の海上をすきまなく船筏をくみ、陸地のように自由に往来し、すぐさま博多、箱崎へ攻めこもうとしました。このことは大友因幡守親時からさっそく京都に報告され、また少弐経資も鎌倉、六波羅に早馬で危急をつげました。このときの将軍家は維康親王、執権は北条相模守時宗でしたが、すぐに四国や九州の武将たちを現地に向かわせ、外敵を防ぐようにと命令書をくだすと、大友、島津、伊東、菊池、相良、少弐、秋月、原田、松浦、三原、宗像、草野、星野をはじめ、それぞれ博多に集まってモンゴルと戦いました。

モンゴルはもともと日本の防備を分かってましたから、あの石垣よりさらに2~3丈も高く、船に矢倉の材料を積んでおき、これをすぐに組みたてて日本軍の布陣を見くだし、当時は(日本に)存在しなかった仏郎機を放つと、轟音は天地にひびき、当たったものは粉みじんになり、そのせいで死んでしまう味方は数しれません。たいへん恐れて、みんなあちこちに逃げかくれ、大将の命令を聞いて戦おうとするものはいませんでした。

敵軍は調子にのって、みんな上陸し、和国の兵隊と戦いました。そのとき少弐の弟の武藤豊前守景資が一族郎党をつれて防戦していましたが、百路原で、身長7尺あまりの夜叉のような姿で、黒い馬にまたがり矛をたずさえていた敵軍の大将劉相公というのが和国の兵隊を追いかけていたのを、景資がみずから弓矢で撃ちおとしました。この景資は先祖の小次郎資頼から弓矢の知識を伝承していたので、2人といない弓矢の名人でした。

こうして九州の武将たちはモンゴルの背後にまわり、なかでも松浦党のものたちは壱岐・松浦の海上で戦い、山代又三郎栄、志佐次郎継などは負傷し、何人かは戦死しました。肥前の龍造寺左衛門尉季益の一族も300騎あまりで船をすすめ、大瀬門、小瀬門、三年浦、幾島、松島でモンゴルと戦い、季益の嫡男の龍造寺又次郎季時はとくに武勇をふるって敵兵213人を切りました。

それども外国の人々はものともしません。後藤三郎氏明、同じく伯父の塚崎十郎定明、子息の中野五郎頼明、大村又次郎家信、安富左近将監頼泰、深堀左衛門尉時光、子息の弥五郎時仲、櫛田宮の執行次郎伴朝臣兼信らがみんな手柄を立てました。筑後では田尻三郎種重、弟の次部種光が戦死し、西牟田弥次郎永家は閏7月22日に松浦鷹島にて手柄を立て、壱岐の石田五郎為治は戦死しました。肥後の菊池四郎武房も博多で戦いをいどんで多くのモンゴル兵を討ちとり、ご褒美として肥後守に任じられました。太宰前少弐入道覚恵は博多の戦いで怪我をして、そのせいで閏7月13日に84歳で死にました。

それから伊予の河野蔵人大夫通有も伯父の伯耆守通時といっしょに筑前の野子浦、志賀島でモンゴルの船に切りかかり、敵の船2艘を奪い、大将1人を生けどりにする大手柄を立てましたが、通有は怪我をして、通時は戦死しました。モンゴルが滅んだあと、通有は討ちとった首を、領地の肥前神崎庄の尾崎というところで楠の大木の枝につるし、1つ1つ検証しました。その場所は現在、蒙古屋敷実検場と呼ばれています。それから通有が、家来の久万弥太郎成俊にモンゴル人の首を京都に届けさせると、抜群の大手柄であるということで、通有は対馬守に任じられ、伊予の山崎庄、肥前の神崎庄のうち、肥後の下久々村に300町を加増されました。


こうして5月21日から戦争がはじまり、6~7月までのあいだに水陸で74回の戦いがありましたが、敵軍を討っても討っても数百万人もいて人数は減らず、味方は勝っても勝っても人数が少ないので疲れるばかりでした。そうした状況は毎日、関東や六波羅にひんぱんに報告されました。宇都宮三河守貞綱がちょうど京都に来ておりましたので、援軍として九州へ遣されました。その人数は6万騎あまりです。長府まで来たところで、中国の大内、厚東の2人も博多に来ました。

また、伊勢、岩清水、加茂、春日などのお寺や神社に御幣を立てると、その御利益でしょうか、閏7月30日、とつぜん枝が折れるほどの大風が吹いて、モンゴル軍の数千艘の船は1艘ものこらず大波に打ちくだかれ、数百万の外国の人々は海底に沈んでしまったということですから、不思議です。

この戦いで手柄を立てた人々には、六波羅の命令をうけて、太宰少弐経資が管理してみんなご褒美をもらいました。それから九州の武将たちはますます博多の津の防備をかため、姪浜に見張り台を作り、交代で守りました。モンゴルも恐れて来なくなりました。


はいはい、長いのでもうやる気なくなった。あとは誰かがやってくれる。