2011/12/29

■太平道と仏教

襄楷という人物の伝記が『後漢書』に立てられている。

桓帝の時代に宦官が実権を握り、政治を混乱させたことについて、襄楷は宮殿にまいり諫状を叩きつけた。その内容にいわく、「かつて私は、琅邪の宮崇が于吉に授かった神書を献上したが、陛下は受けとってくれなかった。宮中で黄老や浮屠の祠を建てたと聞いたが、これらは虚無清浄を説くもので、無為をとうとび、殺生を憎んで欲望を斥けるものである。しかし陛下は、欲望を捨てず刑罰を厳しくし、かの教えに背いている。一説に、老子は異邦に行って浮屠となり、浮屠はおなじ桑の下では三たび休まなかったという。長居することで愛着が生ずることを好まなかったからだ。天神が美女を贈ったときも、『こんなものは革袋に汚物を詰めこんだだけだ』といい、目をやらなかった。陛下は、天下の婦女、天下の飲食を集めており、どうやって黄老の道をゆくのだろうか。」

文中の于吉の神書については、後述されている。いわく、「かつて順帝の時代、琅邪の宮崇が宮殿にまいり、かれの師が曲陽泉水のほとりで手に入れた『太平清領書』なる神書を献上した。その内容は陰陽五行を宗家とするが、巫女によるでたらめな言葉が多かった。」

つまり、のちの黄巾党の張角につらなる「太平道」は、民間呪術をルーツとし、さらに古代の学問である陰陽五行家を箔づけをほどこしたものであり、于吉、宮崇がその伝道者であるが、さらにその系譜を引く襄楷は、仏教を道教と同一視して「太平道」に融合させている。仏教由来の思想が、襄楷のかかわる以前から「太平道」に混入している可能性もあるのではないだろうか。『三国志』孫策伝の注釈に見える于吉の記述は、どこか仏教めいて見えているように思う。

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