2011/12/29

隆中対

劉備が、三たび諸葛亮の草廬をおとなって隆中で初めて対面したことはよく知られている。

このとき諸葛亮は、荊州および益州を攻略して地歩を固め、呉の孫権と手をむすんで魏の曹操に対抗すべきと説いている。このことから、荊州を失陥して孫権と仲違いしたことで諸葛亮の戦略は頓挫したと論ずるひとが多いように思う。

おそらく、そうした議論にはあまり意味がない。

君主が、在野の賢者の私宅をおとない、そのとき臣下の側が君主を王者、または霸者となすべく時勢を説き、天命を説き、道義の確立と基本戦略をるる開陳するところまで、ここまでが太公望の故事にならった一種の「お作法」なのだ。 (そして、このあと君主はうやうやしい態度で賢者の手を引いて馬車に乗せるのだろう。)

隆中対の「対」とは「対策」のことで、対策はそのほか「対冊」「策試」などとも呼ばれるが、官僚採用に取り入れられている制度のことで、地方から選出された優秀な人材に、皇帝みずからが対面して問答をかわし、その人材の優劣を判断するものである。候補者にとっても自分の価値をアピールできる大きな見せどころだ。

現代でいえば、企業が従業員を採用するとき面接試験をするようなもので、そのとき従業員のかたる抱負が実現可能であるかどうか、あるいは企業側が実現したいかどうかはまったく考慮するに値しない。採用担当者は別のところを見ている。

隆中対も同じことだ。

劉備が諸葛亮の私宅をおとない、諸葛亮が朗々と大演説するところまでが一連の作法であり、その形式さえ成りたっていれば内容など二の次なのである。

こうした作法はすでに伝統的に確立されたものであるから、それを演じたのは劉備と諸葛亮の主従だけではない。 いくつかの省略や追加はあるにしても、 たとえば曹操と荀彧、孫策と張紘、袁紹と沮授など、君臣が初めて対面したときはこうした作法が多く用いられる。なにも諸葛亮だけが特別なのではない。

作法をどれだけ厳格に遵守するかによって、君主は臣下に対する礼の厚さをあらわす。君主が私宅におもむくのがもっとも敬意が強く、使者をやって政庁に招くのがこれに次ぐ。人払いして二人だけで日が暮れるまで語りあうのが敬意が強く、人々を集めた宴席でうやうやしく迎えて持論を述べさせるのがこれに次ぐ。臣下の側も、使者に呼ばれて政庁におもむくのがもっとも軽率であり、君主がみずから私宅に来るのを待つほうがそれにまさり、それをすら追いかえすのがもっとも尊厳ある態度とされる。

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