外国の軍隊が攻めてきた
わたしはこのように聞いています。むかし神功皇后が三韓を征伐するため九州へお越しになり、まず肥前の脊振山の頂きに布陣されました。外国に渡海することが会議で決まったので、松浦の干潟に移りました。ちょうど猛暑の盛りだったので、玉島川へお散歩になりました。その港から船を出したところ、住吉大明神が白髪の老人の姿で現れて水先案内人をつとめ、志賀の明神が舵取り役をつとめ、伊予の三並が先陣をつとめ、武内宿禰が軍奉行をつとめ、高麗国の奥地、女真へ進攻されました。
水陸での戦いの結果、高麗国の八つの道(地域)と、新羅、百済、契丹の三韓をすべて平定され、異国の国王は日本の犬であると直筆の矢文を送り、帰国なさいました。
筑前に上陸されたとき、皇后はご懐妊されていて、皇子の応神天皇をお産みになりました。そのとき出産された場所を、現在は香椎と呼んでいます。ご出産のとき、神秘的な香りが四方に広がり、近くの椎の木の葉っぱがみなかぐわしくなったので、このように呼ばれているのです。
これが、日本ではじめての外国への出征です。
その後、34代目の推古天皇の時代に、三韓が反乱を起こして、風変わりな人物が日本に攻めてきました。その人物の肉体は鉄でできていたので、和人はその人物を「鉄人」と呼びました。そのときは伊予の樹下の押領使であった越智益躬が勅命をうけて追討しました。
それから39代目の天智天皇の時代にも、新羅が和国に背いたので、前例を見ならい、越智守興に勅命をくだして征伐させました。
45代目の聖武天皇の時代にも、また三韓が日本に背いたので、藤原宇合の息子の淘若をつかわして処罰されました。
それ以来、外国が日本に侵入してくることはなかったのですが、長い年月も過ぎさり、68代目の後一条院の時代、寛仁3年己寅(己未の誤り)の春、新羅の軍隊が、3月に高麗から出航し、4月1日に対馬、3日に壱岐に到着し、8日に筑前の志摩郡に上陸しました。筑肥の兵隊たちが集まって、それをみんな撃退しました。
また73代目の堀河院の時代、寛治年間にも、モンゴルの大軍が戦艦をこぞって攻めよせましたが、九州の武将たちは、壱岐・対馬・筑前の海上へ出航して戦いました。なかでも肥後の菊池太郎経隆は、勅命をくだされて抜群の手柄があり、かれらを討伐しました。
それから亀山院の時代、文永二年乙丑、モンゴルがまた数千艘、兵隊は376万人、8月13日に筑前の博多の港に攻めてきました。西方は大騒ぎとなり、九州の武士たちがみんな集まってモンゴルと戦いましたが、敵はまるでアリのようで、防ぐこともなかなか難しかったのです。味方はみんな中国地方に下がりました。モンゴルは調子にのって博多や箱崎に上陸し、千手や秋月まで押しよせました。原田次郎と秋月九郎の軍隊が山のなかに隠れていて、鬼のお面や獅子の頭などをつけ、赤、黄、青、白、黒の変わった格好をして、あちこちの木陰や草むらから飛びだし、はげしく戦いました。敵は「これは神軍にちがいない」とびっくりして、みんな逃げていき、数百万のものたちは自分で船にのり高麗へ帰っていきました。
ほどなく11年甲戌10月6日、モンゴルの数千艘が対馬に到着し、19日に筑前の今津の沖まで来て、翌日の20日に博多に入ってきました。九州だけでなく、日本全国があわてふためき、関東や六波羅から九州の武将たちに命令書がくだされ、国々の兵隊が博多に集結しました。ちょうど雪解けの洪水が起こり、筑後の千年川まで来ていたので、薩・隅・日・豊・肥後の兵隊たちは渡ることができませんでした。神代民部大輔良忠が仮設の橋をつくり、かれらを残らず渡しました。後日、鎌倉に報告がとどき、ときの執権の北条相模守時宗は良忠を褒め、心のこもった命令書で領地を与えました。
そのとき肥後の菊池左京大夫隆泰が、大将の称号をもらい、錦の旗をあずかり、博多に行って箱崎の松原でモンゴルと戦いました。菊池は盛大に勝利して、隆泰の三男の三郎有隆が、鎌形というところで敵の大将の鬼盤蔵を討ちとりました。そのとき菊池が指していた錦の旗に、たくさんの血がついて、まるで赤い星のような模様になりました。戦いが終わったあと、(天皇は)その旗をご覧になり、菊池に「赤星」という称号をお与えになりました。このことから三郎有隆は赤星と名字を変えたのです。
この戦いで松浦の山代弥三郎階は戦死しました。千葉介頼胤は負傷して、明くる年の建治元年8月13日、領地の肥前の小城で37歳で死にました。こうしてモンゴルはほどなく引きあげました。
このようにたびたびモンゴルが攻めてきては戦争になり、いずれも苦戦しましたので、外国に備えるため、関東は命令をくだして、九州の武士を動員して建治2年3月から博多の港に石垣を作らせました。その場所は、博多の冷泉津の北に3~4里のあいだ、高さ4~5丈に大きな石をつみ、屏風を立てたようにおごそかに建設しました。太宰少弐資能がずっと太宰府にいて、その作業を監督しました。
こうして九州の人々は、それぞれ作業員をつれて博多の港に行き、持ち場を決めて石垣を作りました。その仲間は、筑前の原田孫次郎種遠、秋月左衛門尉種頼、田淵次郎、宗像大宮司、千手、黒河、山鹿、麻生、少弐の一族はもちろんのこと、豊前の城井常陸守時綱、長野、田河、筑後の田尻三郎種重、神代民部大輔良忠、黒木新蔵人大夫、星野、河崎、西牟田弥次郎永家、草野筑後権守永綱、酒見菅太郎教員、末安右馬允兼光、肥後の菊池左京大夫隆泰、阿蘇大宮司惟季、相良、蘆北三郎、肥前の高木伯耆六郎家宗、龍造寺左衛門尉季益、国分弥次郎季高、三浦、深堀弥五郎時仲、大村太郎家直、越中次郎左衛門尉長員、安富、深江民部三郎頼清、有馬左衛門尉朝澄、後藤三郎氏明、同じく塚崎十郎定明、橘薩摩十郎公員、白石次郎入道、多久太郎宗国、於保四郎種宗、馬渡美濃八郎、今村三郎、田尻六郎能家、綾部又三郎幸重、上松浦の波多太郎、鴨打次郎、鶴田五郎馴、下松浦の松浦丹後権守定、峯五郎省、平戸源五郎答、伊万里源次郎入道如性、山代又三郎栄などの(松浦)両党のものたち、豊後の大神一族、薩摩の島津兄弟、日向の伊東、土持、大隅の牛糞、河俣をはじめ、ことごとく博多に集まって協力しました。九州の大事業は、これ以上のものはありません。
そこへ弘安4年辛巳5月20日、またもやモンゴルの船4000艘あまりが壱岐に到着し、筑前のうち志賀、野子の浦から東の海上をすきまなく船筏をくみ、陸地のように自由に往来し、すぐさま博多、箱崎へ攻めこもうとしました。このことは大友因幡守親時からさっそく京都に報告され、また少弐経資も鎌倉、六波羅に早馬で危急をつげました。このときの将軍家は維康親王、執権は北条相模守時宗でしたが、すぐに四国や九州の武将たちを現地に向かわせ、外敵を防ぐようにと命令書をくだすと、大友、島津、伊東、菊池、相良、少弐、秋月、原田、松浦、三原、宗像、草野、星野をはじめ、それぞれ博多に集まってモンゴルと戦いました。
モンゴルはもともと日本の防備を分かってましたから、あの石垣よりさらに2~3丈も高く、船に矢倉の材料を積んでおき、これをすぐに組みたてて日本軍の布陣を見くだし、当時は(日本に)存在しなかった仏郎機を放つと、轟音は天地にひびき、当たったものは粉みじんになり、そのせいで死んでしまう味方は数しれません。たいへん恐れて、みんなあちこちに逃げかくれ、大将の命令を聞いて戦おうとするものはいませんでした。
敵軍は調子にのって、みんな上陸し、和国の兵隊と戦いました。そのとき少弐の弟の武藤豊前守景資が一族郎党をつれて防戦していましたが、百路原で、身長7尺あまりの夜叉のような姿で、黒い馬にまたがり矛をたずさえていた敵軍の大将劉相公というのが和国の兵隊を追いかけていたのを、景資がみずから弓矢で撃ちおとしました。この景資は先祖の小次郎資頼から弓矢の知識を伝承していたので、2人といない弓矢の名人でした。
こうして九州の武将たちはモンゴルの背後にまわり、なかでも松浦党のものたちは壱岐・松浦の海上で戦い、山代又三郎栄、志佐次郎継などは負傷し、何人かは戦死しました。肥前の龍造寺左衛門尉季益の一族も300騎あまりで船をすすめ、大瀬門、小瀬門、三年浦、幾島、松島でモンゴルと戦い、季益の嫡男の龍造寺又次郎季時はとくに武勇をふるって敵兵213人を切りました。
それども外国の人々はものともしません。後藤三郎氏明、同じく伯父の塚崎十郎定明、子息の中野五郎頼明、大村又次郎家信、安富左近将監頼泰、深堀左衛門尉時光、子息の弥五郎時仲、櫛田宮の執行次郎伴朝臣兼信らがみんな手柄を立てました。筑後では田尻三郎種重、弟の次部種光が戦死し、西牟田弥次郎永家は閏7月22日に松浦鷹島にて手柄を立て、壱岐の石田五郎為治は戦死しました。肥後の菊池四郎武房も博多で戦いをいどんで多くのモンゴル兵を討ちとり、ご褒美として肥後守に任じられました。太宰前少弐入道覚恵は博多の戦いで怪我をして、そのせいで閏7月13日に84歳で死にました。
それから伊予の河野蔵人大夫通有も伯父の伯耆守通時といっしょに筑前の野子浦、志賀島でモンゴルの船に切りかかり、敵の船2艘を奪い、大将1人を生けどりにする大手柄を立てましたが、通有は怪我をして、通時は戦死しました。モンゴルが滅んだあと、通有は討ちとった首を、領地の肥前神崎庄の尾崎というところで楠の大木の枝につるし、1つ1つ検証しました。その場所は現在、蒙古屋敷実検場と呼ばれています。それから通有が、家来の久万弥太郎成俊にモンゴル人の首を京都に届けさせると、抜群の大手柄であるということで、通有は対馬守に任じられ、伊予の山崎庄、肥前の神崎庄のうち、肥後の下久々村に300町を加増されました。
こうして5月21日から戦争がはじまり、6~7月までのあいだに水陸で74回の戦いがありましたが、敵軍を討っても討っても数百万人もいて人数は減らず、味方は勝っても勝っても人数が少ないので疲れるばかりでした。そうした状況は毎日、関東や六波羅にひんぱんに報告されました。宇都宮三河守貞綱がちょうど京都に来ておりましたので、援軍として九州へ遣されました。その人数は6万騎あまりです。長府まで来たところで、中国の大内、厚東の2人も博多に来ました。
また、伊勢、岩清水、加茂、春日などのお寺や神社に御幣を立てると、その御利益でしょうか、閏7月30日、とつぜん枝が折れるほどの大風が吹いて、モンゴル軍の数千艘の船は1艘ものこらず大波に打ちくだかれ、数百万の外国の人々は海底に沈んでしまったということですから、不思議です。
この戦いで手柄を立てた人々には、六波羅の命令をうけて、太宰少弐経資が管理してみんなご褒美をもらいました。それから九州の武将たちはますます博多の津の防備をかため、姪浜に見張り台を作り、交代で守りました。モンゴルも恐れて来なくなりました。
はいはい、長いのでもうやる気なくなった。あとは誰かがやってくれる。
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