いったい何がおこっていたのだろう? 失語症病棟からどっと笑い声がした。ちょうど、患者たちがとても聞きたがっていた大統領の演説がおこなわれているところだった。
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オリヴァー・サックスはロンドン生まれの脳神経科医である。アメリカにわたり診療をおこなうかたわら、作家としても精力的に活動した。映画『レナードの朝』は、このサックス医師の実体験から紡ぎだされた著書を映画化したものだ。本稿の引用はすべて『妻を帽子とまちがえた男』から採っている。
テレビでは、例の魅力的な元俳優の大統領が、たくみな言いまわしと芝居がかった調子で、思い入れたっぷりに演説していた。そして患者たちといえば、みな大笑いしていた。もっとも、全員というわけではなかった。当惑の表情をうかべている者もいたし、むっとしている者もいた。けげんそうな顔をしている者も一人二人いたが、ほとんどの患者は面白がっているようだった。大統領はいつものように感動的に話していた。そう、患者たちにとってはふきだすほど感動的だったのだ。彼らはいったい何を考えていたのだろう。大統領の言うことがわからなかったのだろうか。それともよくわかっていたのだろうか。
サックス医師は、失語症の患者を見極めるためには「きわめて不自然に話したりふるまったりしなければならない」という。なぜならば、「自然な発話とは単語のみで成り立っているのではなく、ヒューリングズ・ジャクソンが考えたように、主題(話そうとする内容)のみで成り立っているのでもない」からである。失語症の患者は言葉の意味を理解しないかわりに、話し手の表情やジェスチャー、声の調子、イントネーション、示唆的な強調や抑揚を、きわめて敏感に読みとる。だからそれら一切を慎重に排除して「声を非人格化」しなければならない。発話を非人格化された「純粋な単語の集合体」に変えることで、患者がその羅列された単語の意味を正しく読みとれるかどうか確認するのである。
だから私をふくめ失語症患者に接している者がしばしば感じることは、彼らには嘘をついても見やぶられてしまうということだ。失語症患者は言葉を理解できないから、言葉によって欺かれることもない。しかし理解できることは確実に把握する。彼らは言葉のもつ表情をつかむのである。総合的な表情、言葉におのずからそなわる表情を感じとるのだ。言葉だけならば見せかけやごまかしがきくが、表情となると簡単にそうはいかない。その表情を彼らは感じとるのである。
(略)
犬にできることは失語症患者にもできる。しかもはるかに高度なことができるのだ。「口では嘘がつけても表情には真実があらわれる」とニーチェは書いているが、表情、しぐさ、態度にあらわれる嘘や不自然さにたいして、失語症患者はとても敏感である。たとえ相手が見えなくても――盲目の失語症患者の場合まぎれもない事実なのだが――彼らは、人間の声のあらゆる表情すなわち調子、リズム、拍子、音楽性、微妙な抑揚、音調の変化、イントネーションなどを聞きわけることができる。本当らしく聞こえるか否かを左右するのが声の表情なのである。
失語症の患者はそれを聞きわける。言葉がわからなくても本物か否かを理解する力をもっている。言葉を失ってはいるが感受性がきわめてすぐれた患者には、しかめ面、芝居がかった仕草、オーバーなジェスチャー、とりわけ、調子や拍子の不自然さから、その話が偽りであることがわかる。だから私の患者たちは、言葉に欺かれることなく、けばけばしくグロテスクな――と彼らには映った――饒舌やいかさまや不誠実にちゃんと反応していたのだ。
だから大統領の演説を笑っていたのである。
サックス医師によると、失語症とはちょうど反対の症状をしめす者がいるという。失語症患者が言葉を理解できないかわりに顔や声の表情を読みとるのに対し、音感失認症は「語の意味は(さらに文法構造も)完全に理解できるのに、声の表情――調子、音色、感じ、声全体の性質――が把握できない」。
サックス医師の病棟には音感失認症の患者たちもいて、エミリー・Dがその一人だった。エミリーは症状が進むにつれ、周囲の人々に厳密な言葉づかいを求めるようになった。「くだけた言葉づかいの会話や俗語、それとない言いまわしや感情的な話がだんだん理解できなくなっていった。そこで彼女は、きちんと整った文を話すこと、正確な言葉づかいで話すことを要求するようになった。文法的に整った文ならば、調子や情感がわからなくてもある程度まで理解できると気づいたからである」。
そのエミリー・Dは、失語症の患者といっしょに大統領の演説を聞いていた。
エミリー・Dもまた、石のように固い表情で大統領の演説を聞いていた。よくわかっているようでもあり、わからないようでもあった。だが厳密にいえば、それは失語症患者の困惑したようすとは反対の状態だったのである。彼女は演説に感動していなかった。どんな演説にも心が動かされることはない。感情に訴えることをねらったものは、それが真正のものであろうと偽りのものであろうと、彼女にはまったく無縁だった。感情的な反応を見せることはできないけれど、彼女もわれわれとおなじく、内心では聞きほれ、それに魅せられていたということはなかったのだろうか? なかった。彼女はこう言った。「説得力がないわね。文章がだめだわ。言葉づかいも不適当だし、頭がおかしくなったか、なにか隠しごとがあるんだわ」と。こうして大統領の演説は、失語症患者ばかりでなく、音感失認症の彼女も感動させることができなかったのだ。彼女の場合は、正式な文章や語法の妥当性についてすぐれた感覚をもっていたせいであり、失語症患者のほうは、話の調子は聞きわけられても単語が理解できなかったせいである。
エミリー・Dは、失語症の患者たちはまた違った理由で、大統領の演説をまったく理解しなかったのだ。
これこそ大統領演説のパラドックスであった。われわれ健康な者は、心のなかのどこかにだまされたい気持があるために、みごとにだまされてしまったのである(「人間は、だまそうと欲するがゆえにだまされる」)。巧妙な言葉づかいにも調子にもだまされなかったのは、脳に障害をもった人たちだけだったのである。
彼らははたして、大阪市長の演説を感動的に聞き入るのだろうか、それとも笑いだしてしまうのだろうか。
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