教師の体罰は戦前から禁止されていたとして、谷山義彦さんが読売新聞のスキャン画像を紹介していました。その紙面をテキストに書き起こしてみました。
頻発する『先生が生徒をなぐるいまわしい事件』
激情は飛去るも愛はとどまる
「愛すればこそ」などいうは、みな教師の弁解
千駄ヶ谷第三小学校では先生に殴られた生徒が発狂し鮫浜小学校では弁当検査の時先生が生徒を本で殴ったとか殴らぬとかでゴタゴタを起しています。
□□□生が生徒を殴る事のわるい事は言うまでもないが、にもかかわらず頻々としてなぜこんな忌わしい事件が起るのか。
次はそれについての東京府視学肥後盛能、小島直太郎両氏のお話です。
先生が生徒を殴打する――それは法令上厳禁されていまして悪い事は充分教師も知っている筈です。
同時に教育上からも絶対にいけません。
よく殴打した教師は『後から責任』を回避するため教育に熱心の余り殴ったとか、愛すればこそ殴った――とか体裁のよい言訳をするけれども始めからそんな冷静な判断のもとに人をなぐるものはありません。
皆一時にカット昂奮の余り知らず知らず殴打するのです。
第一殴打という事は道徳上から言ってよくありません、
修身教授にいか程愛信敬などと口を酢っぱくして教師がやかましく言っても、若し『教師が生徒』をなぐったら、その一件で皆目教授の効果はブチ壊されてしまいます。
教師の殴打するのを見た子供はやがて弟や妹や下級生を殴打する様になって乱暴な子になります。
同時に第二は大切な人様の子供を預かって世話しながらその子をそこなうるに至っては全く言語道断です。
また第三に教育の理想から申しましても少くともその教師と児童の間に於て師弟間の愛は打壊されてしまいます。
『愛のない処』に教育は成り立ちません。
そして教師その者の軽卒な常軌を逸した行為によって人格を傷つけ、自らをそこなう事になります。
第四に方法的に見ましても懲罰は威嚇的ではダメです。
あくまで改善のため訓誡であっていただきたい。
つまり威嚇では子供は萎縮してしまって思った事を自由に教師の前で言ったり行ったり出来なくなります。
道徳を愛しない教師は生徒の『道徳を説く』資格はありません。
師弟の関係は愛其もののみです。
愛は二つの人格を一つのものに合致せしめる力で、教育は愛であります。
決して権力関係ではありません。
又、感化したいという自尊心の発動でもありません。
又愛は一時の感激でもありません。
絶対不変の統一的人道でシルレルは『激情は飛び去るも愛は止まる』と言っている通りです。
昭和二年五月三十日 『読売新聞』 朝刊 第三面
https://twitter.com/jemappellety/status/288834470579150848/photo/1/large
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